2010年2月14日日曜日

無責任な新聞記事

産経新聞に国母問題で以下のような記事。
この記者は何を是としているのか。主張がみえない。

若者ファッション 主義があればいい とでも言いたいのか?

自分の知識の深さ、幅を示したかったのか?

この記者、昨年の仕分けの時にクローズアップされた日本のスポーツの問題について認識していないのか?

スポーツが多くの国民に支持されていないこと、多くの市民がアスリートを気持ちよく支えられる社会になっていないことが、今のこの国のスポーツの問題。

そうなれば、答えは決まっている。市民が気持ちよく応援できるような姿勢を彼らは示さなければいけない。
支えてほしくないなら 別にどうしてたっていい。個人の勝手だ。

税金を使い、スポンサーに支えられているプロ選手が、そこを見ないでどうする?

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ダブダブのズボンを下着が見えるまでズリ下げて着こなす(あるいは「着崩す」)「腰パン」の本家は、米国である。
 「サギング」、あるいは「サギー・パンツ」と呼ばれるこのファッション、米国で激しい論争の対象にもなっている。ここ数年、公序良俗を乱すとして、罰金刑や禁固刑を科す規制条例が一部の市で施行される動きが相次いだ。ところが逮捕された若者が裁判に訴えるなどした結果、こうした条例は表現の自由を保障した憲法に違反するとの判決も出始めた。
 人々が、けんけんがくがくの議論を戦わせる理由のひとつは、「腰パン」が、人種問題や世代対立とからんだ「反抗」や「挑戦」のメッセージを含んだファッションだからだろう。
 発祥には諸説あるが、黒人文化を源流とするという点ではおおむね一致している。囚人服をイメージさせるダブダブの服によって「刑務所帰り」を想起させるのがねらいとの説もある。こうしたセンスを理解できない人や我慢できない人がいてもまったくおかしくはない。その意味で、対立はかなりとげとげしい。
 が、一方で、この手の俗っぽい話であっても、条例の制定や対抗提訴を含め、大まじめで熱い議論がわき起こるのは米国の美点だと思う。
 開幕式を目前に控えた12日昼、「腰パン」ほかの服装の乱れが問題視された国母和宏選手(スノーボード・ハーフパイプ男子)が、日本選手団の橋本聖子団長に付き添われて会見に臨み、「ご迷惑、ご心配をかけてすみませんでした」と頭を下げた。
 国母選手は殊勝に心を入れ替えたのか。正直なところ、判断がつかなかった。なにしろほとんどしゃべらない。隣の橋本団長が極めて明晰(めいせき)かつ論理的な話し方をするからなおさらだったのかもしれないが、心境を問われてもしばし黙り込み、ちらちらと橋本団長の顔を見てから「がんばるしかないと思いました」などと短く答えるだけである。
 反省したならそれでいい。反省していないならそれでもいい。自分を曲げたくないのなら、主張すればいい。一時的には大バッシングを浴びようが、必ず耳を傾ける人が現れ、議論につながるはずだ。
 だがこの日の会見を見る限り、「イヤイヤながら反省の弁を述べているのでは」との思いをぬぐえなかった。「国母ファッションを応援している人もいるはずだが」との問いには、ずいぶんと長い間を取ったあげく、「何ともいえないです」とポツリ…。
 たかが「腰パン」だが、その論争が憲法判断まで行き着く国もある。国母選手の熱い主張を聞きたかった。(バンクーバー 松尾理也)
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2010年2月13日土曜日

スポーツは公・・・

東京スポーツリンクのカフェ(第1回)で、自民党の河野太郎氏が講演。
氏のブログにも以下のような報告がある。
http://www.taro.org/2010/02/post-715.php
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(前略)
スポーツは私の部分と官ではない公の部分で、官をなるべく排除していくべき。文科省がスポーツの予算をつけたり、TOTOや公営ギャンブルの助成金を配るのではなく、公益認定されたスポーツ団体への寄付を税額控除にして、国民が自らスポーツにお金を出すべきだ。

スポーツ振興基本法やスポーツ庁などを作れば官がのさばる。スポーツは関わっている人達がみんなで創り上げるべきで、文科省の予算どりの道具にするべきではない。
(後略)
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官がのさばる・・・・というよりも、今は、官ではなく公人と呼ばれる一部の方々がのさばっているのが問題なのではないか。
結局、どんな形にしても、そこがかわらなければ変わらない。
トップの意識改革、もしくは トップの交替 がなければ 変わらないと思う。

国民はすでにスポーツにお金を出しているのではないか。
それがうまく配分されずに、一部に集中しているだけではないか? 
一方的な搾取? とまではいわないが、還元されなければ、誰も出す気がなくなっていく。




2010年2月7日日曜日

やばい・・・

口が過ぎたか・・・ 言いたいことを勝手に言っているうちに、新聞に載ってしまった。
いつもMLに書いているようなことを話せといので、いつものとおり適当に話しをしたが・・・

また嫌われてしまうかも・・・・日体協も、スポーツ振興センターも、クラブの担当されている方々を敵視しているわけじゃないんだからね~ みんなスポーツのために頑張ってるって思ってるから^^

でも、仕組みが思うにまかせないとすれば、どこかで変えていくことも必要だろうなと。

それが彼ら・彼女らの仕事を奪うのではなく、勤務地が地域に変わり、仕事内容がより現場に近くなってくれれば・・・彼ら・彼女らにとっても、さらにやりがいのある仕事になるのではと期待している。

星空でのこと(2)

木曜日に20度の小笠原から帰ってきた身には、かなりしんどい冷え込みの中、昨晩の星空サッカー。
代表戦もあったので、参加者少なめ。大人10名、子ども16名程度か。

いつものとおり前半は大人と子ども混成チーム4チームで総当り。残り時間は、大人と子どもをわけて行なう。
子どもも少なかったので、6年生数名に「とりとりやって自分達で決めな」とほおりだす。
前は、チームわけが自分達ではできなかったが、昨日はそれなりにやっていた。試合もできていたみたいだ(自分のことに夢中で、そこから先はあまりみていない 笑)

リンクをはらしていただいているMさんの「学際日記」に、以下のようなフレーズ
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我が国の初等中等教育が、長らく「同学齢集団内での相対的優位」を偏差値なるもので示し、それを高くすることに公私にわたる多くの教育資源を投じてきた結果、我が国の子どもの学力は下がり続けている(と言われている)。

所属する集団内部での「閉じた競争」に子どもを追いやることに、教育的な意味はほとんど(≠全く)ないと言っても過言ではない。
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これ、スポーツも同じじゃないかなと思う。
大人(保護者)や指導者の(正しいとは限らないが)手厚い庇護のもとで行なわれているスクールや少年団活動。生きる力が身につくのか? 
 いろいろなレベルやいろいろな考えの人間と一緒にやることで、創造力や思考力、判断力に多様性が生まれてくるのではないか。それはきっとスポーツを続ける中でも役に立つ。
 トップでプレイできる人間はコンマ数%。それ以外の子達は、いろいろなところでスポーツをすることになる。均質を求めるくせがつけば、選択肢はせばまる。ともすると異質なものの排除につながる。
  
 星空は、異質なものを認めあえるようになる場になればいいと思う。

 でも、クラブの中でも理解者がいるのかどうか 正直 ?

2010年2月2日火曜日

今ほんとにスポーツ庁か・・・・

スポーツ庁設置にむけて検討を開始するという政府答弁。
専門の省庁があることが喜ばしいことと思っていた。でも、ほんとにそうだろうか。
それって、省庁が予算をいかに多く獲得できるかに一喜一憂していた時代のこと。
ほんとにいまでもそうであろうか。

むしろ、スポーツって多くの既存省庁の取り扱い分野に広く関わっていくものではないだろうか。

今のスポーツ界が、独立したところで、果たしてスポーツの普及・振興に本当に有効に働くだろうか。(少なくとも地域スポーツの視点から)

僕は無理なように思えてならない。むしろ、スポーツ以外の分野の人々と交わることで、かろうじで保たれているのではないかと思う。